CG検定過去問を一通りやリ終えた。
間違ってばかりだけど(^^;、今からが復習。自分の力になる時だと思う。合格率は前回25.8%だということだからしっかりやればきっとう受かると信じ込んでやってみる。
昨日眠る前に、高校生の時の自分を思い出していた。今日は自分の、まだ残る弱さを自分で受けとめたくて日記に書いてみたいと思う。
(今日は自分の気持ちを言葉にしたくて長く書きそうなので、読むのがしんどくなると思われます。ですので、面倒な時は今日の日記は飛ばして下さい☆)
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私のいた高校は進学校だったので、朝補習も放課後補習もしっかりあっていたところ。
しかしまだ1年生の時はそこまで時間割りがつまっていなかったので、高校生活を楽しみたいと思い、中学校からやっていたブラスバンド部に入ることにした。同じクラスにブラバン(←ブラスバンドの略)の子がいて、一緒に入ろうと言われていたのでウキウキしながら入部した記憶がある。
実際入部してみて、中学の時とは違う先輩後輩間の緊張感や先輩の技術の高さ、それからなによりもいろんな地域から来ている今迄には居なかった友人もたくさん出来て、2年の半ば頃までは毎日が楽しくて仕方なかった。
それが崩れ、自分の高校時代を涙でそめたのはそれ以降の自分のごう慢さと弱さだったと、今は思う。
先輩が部活を引退し自分達の代になってから私は木管練習長という、みんなをまとめる代表の一人になった。木管練習長の他は金管練習長・総合練習長、そして部長1人副部長2人を入れて6人。この6人は幹部というのだそうで(やくざみたいって思ってたけど)みんなの見本になり、率先してみんなを引っ張っていく立場にいなければいけない存在。私はそれを知りながらも本気でみんなとやって行きたくて立候補し、なおかつ他の立候補の人と競い合って多数決で木管練習長になったのだった。
長というもの、長たるものは自分の腕をあげるべく能力を高める為に習いに行ったり毎日の練習という、いかに上手くなるかを追求すべき人にならなければいけないということ。
でもその時の私にはおこずかいも少ないから習いに行く事は無理だった。毎日の練習も、親が共働きで週1は家で夕飯を作ると約束していて、土曜日は小さい頃からやっていた習字の日。だから基本的に週2日は休む日があった。
しかし幹部は毎日練習にでてきて、腕をあげ、皆に手本となるようにいるという使命があったのだ。
私には出来なかった。
そして私の無知の恐ろしさを自分で感じた出来事、木管楽器みんなを前に指揮をとり演奏するという日が来た。
ピアノも習った事がなかった、自分の楽器の楽譜しか見ていなかった私は、他の木管楽器の楽譜が自分のやっているものとは違うことを自覚していなかった。
だから自分の楽譜がマスターできても他の楽譜がわかるわけではなかった。それを知らずにタクトをもった私は、どうまとめていいものかわからず混乱することになったのだった。
きっとみんな下手だと思った事だろう。
自分の無知にやっと気付き、毎日来ない私の、練習日にちのペースに苛立った仲間から毎日来るように指摘され、自分の力なさを自覚し始めると、周りの仲間が自分よりも格段上にいるように見えて来た。自分はこの場所にいていいのだろうかと。木管練習長である自分が辛くなって来たのだった。
練習の日にちを増やそうと、両親と約束していた夕飯を作る日も練習に出かけるようになった。習字も休むようになった。
そうして家に帰ると、仕事でくたくたになった母と約束を守らない私との大げんかになる。しかし仲間に指摘されたくないのでそれでも練習へ。母との喧嘩は毎日になった。
私のクラスにはブラバンの人が多くいたので、教室にいることが苦痛になりよく保健室に逃げ込んでいた。
そんなことを繰り返すうちに、勉強に向かうことが出来なくなり、自分の本業をおろそかにするようになってしまった。
そして2年の終わり、試験の全国統一模試の結果を見て愕然とすることになる。その時は今迄360人ぐらいの中で、100位以上に落ちた事がなかったのたが、300番目近いくらいに私は成績を下げていたのだった。そしてそれを知った両親は大激怒。部活がネックになっていることを指摘され、そのようなら辞めるように言われた。
そして同時期に、私は生理不順に気が付いた。1年以上まともな生理がきていなかったのだった。保健室の先生とも相談し、先生の紹介で婦人科へいくことに。SEXもしたことのない高校生の私が先生(人前)に自分の恥部を見せ診察される、当時の私にはとても考えられない事でした。母もかなり神経質になっていたようで、しかも(こんなことを言っては世間の男性の先生に怒られますが)男の先生でした。検査結果の私の病状は多嚢胞性卵巣症候群というもの。卵巣がうまく排卵しない為卵巣が腫れて痛みがあるそうで、確かにお腹は痛かった。そしてこのまま放っておくと不妊になる可能性が高いと統計ででているのだそうだ。私はなんだかピンとこなかったけど、薬を飲んでおく事がいいのだと思い、別になんのためらいもなく先生を信じて薬を飲み続けていた。しかしそれを見ていた母は薬の副作用を心配し、統計で判断される先生をバッシング。母は私を大切に思ってくれるあまりに先生と大げんかし、女の先生の病院にかわることになったのだった。
この後におよんでも、みんなからの批判をうけたくない、悪者になりたくない私は部活を辞めず、どんどん成績は落ちて行く事になった。
そして自分でもダメになると自覚した私は部活の副顧問の女性の先生に間に立ってもらい、生理不順という、体の不調を理由にし、診断書を婦人科の先生に書いてもらい、ブラスバンドを3年になる直前で辞めることになった。
しかし基礎がままならない私にはそれから成績の挽回は出来なかった。そのなかで自分の出来る範囲勉強し、大学へ。
自分の弱さ、ごう慢さ、頭のわるさと要領の悪さ、そして計画性のなさを高校の間で身にしみて痛感させられたのだった。
その時から勉強しても追い付かない自分のダメさと根気のなさにもうんざりさせられた。
そして大学でも勉学の方ではなんとなく過ごしていた
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そんなことをざっと頭の中で思い返し、今の自分を考えていた。
自分には難しい検定など受かるのだろうかと。
でも、いままで駄目だったけれど、自分を戒めてがんばりたいと思う。大学を卒業した今、遅くはなってしまったがそう思えるようになったのだった。
今、勉学で自信をあまり持てていないわたしは、この試験をうけることで大きくなれるかもしれないと思う。他の方から見たら阿呆らしいことに思えるが(←客観的にみた自分がそう思うので)私の自信として、今回やりたいと思う。いつもなんらかの理由をつけて、逃げようとする自分を変える為に。
間違ってばかりだけど(^^;、今からが復習。自分の力になる時だと思う。合格率は前回25.8%だということだからしっかりやればきっとう受かると信じ込んでやってみる。
昨日眠る前に、高校生の時の自分を思い出していた。今日は自分の、まだ残る弱さを自分で受けとめたくて日記に書いてみたいと思う。
(今日は自分の気持ちを言葉にしたくて長く書きそうなので、読むのがしんどくなると思われます。ですので、面倒な時は今日の日記は飛ばして下さい☆)
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私のいた高校は進学校だったので、朝補習も放課後補習もしっかりあっていたところ。
しかしまだ1年生の時はそこまで時間割りがつまっていなかったので、高校生活を楽しみたいと思い、中学校からやっていたブラスバンド部に入ることにした。同じクラスにブラバン(←ブラスバンドの略)の子がいて、一緒に入ろうと言われていたのでウキウキしながら入部した記憶がある。
実際入部してみて、中学の時とは違う先輩後輩間の緊張感や先輩の技術の高さ、それからなによりもいろんな地域から来ている今迄には居なかった友人もたくさん出来て、2年の半ば頃までは毎日が楽しくて仕方なかった。
それが崩れ、自分の高校時代を涙でそめたのはそれ以降の自分のごう慢さと弱さだったと、今は思う。
先輩が部活を引退し自分達の代になってから私は木管練習長という、みんなをまとめる代表の一人になった。木管練習長の他は金管練習長・総合練習長、そして部長1人副部長2人を入れて6人。この6人は幹部というのだそうで(やくざみたいって思ってたけど)みんなの見本になり、率先してみんなを引っ張っていく立場にいなければいけない存在。私はそれを知りながらも本気でみんなとやって行きたくて立候補し、なおかつ他の立候補の人と競い合って多数決で木管練習長になったのだった。
長というもの、長たるものは自分の腕をあげるべく能力を高める為に習いに行ったり毎日の練習という、いかに上手くなるかを追求すべき人にならなければいけないということ。
でもその時の私にはおこずかいも少ないから習いに行く事は無理だった。毎日の練習も、親が共働きで週1は家で夕飯を作ると約束していて、土曜日は小さい頃からやっていた習字の日。だから基本的に週2日は休む日があった。
しかし幹部は毎日練習にでてきて、腕をあげ、皆に手本となるようにいるという使命があったのだ。
私には出来なかった。
そして私の無知の恐ろしさを自分で感じた出来事、木管楽器みんなを前に指揮をとり演奏するという日が来た。
ピアノも習った事がなかった、自分の楽器の楽譜しか見ていなかった私は、他の木管楽器の楽譜が自分のやっているものとは違うことを自覚していなかった。
だから自分の楽譜がマスターできても他の楽譜がわかるわけではなかった。それを知らずにタクトをもった私は、どうまとめていいものかわからず混乱することになったのだった。
きっとみんな下手だと思った事だろう。
自分の無知にやっと気付き、毎日来ない私の、練習日にちのペースに苛立った仲間から毎日来るように指摘され、自分の力なさを自覚し始めると、周りの仲間が自分よりも格段上にいるように見えて来た。自分はこの場所にいていいのだろうかと。木管練習長である自分が辛くなって来たのだった。
練習の日にちを増やそうと、両親と約束していた夕飯を作る日も練習に出かけるようになった。習字も休むようになった。
そうして家に帰ると、仕事でくたくたになった母と約束を守らない私との大げんかになる。しかし仲間に指摘されたくないのでそれでも練習へ。母との喧嘩は毎日になった。
私のクラスにはブラバンの人が多くいたので、教室にいることが苦痛になりよく保健室に逃げ込んでいた。
そんなことを繰り返すうちに、勉強に向かうことが出来なくなり、自分の本業をおろそかにするようになってしまった。
そして2年の終わり、試験の全国統一模試の結果を見て愕然とすることになる。その時は今迄360人ぐらいの中で、100位以上に落ちた事がなかったのたが、300番目近いくらいに私は成績を下げていたのだった。そしてそれを知った両親は大激怒。部活がネックになっていることを指摘され、そのようなら辞めるように言われた。
そして同時期に、私は生理不順に気が付いた。1年以上まともな生理がきていなかったのだった。保健室の先生とも相談し、先生の紹介で婦人科へいくことに。SEXもしたことのない高校生の私が先生(人前)に自分の恥部を見せ診察される、当時の私にはとても考えられない事でした。母もかなり神経質になっていたようで、しかも(こんなことを言っては世間の男性の先生に怒られますが)男の先生でした。検査結果の私の病状は多嚢胞性卵巣症候群というもの。卵巣がうまく排卵しない為卵巣が腫れて痛みがあるそうで、確かにお腹は痛かった。そしてこのまま放っておくと不妊になる可能性が高いと統計ででているのだそうだ。私はなんだかピンとこなかったけど、薬を飲んでおく事がいいのだと思い、別になんのためらいもなく先生を信じて薬を飲み続けていた。しかしそれを見ていた母は薬の副作用を心配し、統計で判断される先生をバッシング。母は私を大切に思ってくれるあまりに先生と大げんかし、女の先生の病院にかわることになったのだった。
この後におよんでも、みんなからの批判をうけたくない、悪者になりたくない私は部活を辞めず、どんどん成績は落ちて行く事になった。
そして自分でもダメになると自覚した私は部活の副顧問の女性の先生に間に立ってもらい、生理不順という、体の不調を理由にし、診断書を婦人科の先生に書いてもらい、ブラスバンドを3年になる直前で辞めることになった。
しかし基礎がままならない私にはそれから成績の挽回は出来なかった。そのなかで自分の出来る範囲勉強し、大学へ。
自分の弱さ、ごう慢さ、頭のわるさと要領の悪さ、そして計画性のなさを高校の間で身にしみて痛感させられたのだった。
その時から勉強しても追い付かない自分のダメさと根気のなさにもうんざりさせられた。
そして大学でも勉学の方ではなんとなく過ごしていた
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そんなことをざっと頭の中で思い返し、今の自分を考えていた。
自分には難しい検定など受かるのだろうかと。
でも、いままで駄目だったけれど、自分を戒めてがんばりたいと思う。大学を卒業した今、遅くはなってしまったがそう思えるようになったのだった。
今、勉学で自信をあまり持てていないわたしは、この試験をうけることで大きくなれるかもしれないと思う。他の方から見たら阿呆らしいことに思えるが(←客観的にみた自分がそう思うので)私の自信として、今回やりたいと思う。いつもなんらかの理由をつけて、逃げようとする自分を変える為に。
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